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HGKエンジンの謎 2005年 5月 古崎仁一 | ||||||||
東京駒込にあった橋岡技術研究所は企業の依頼による製品開発の仕事を請け負っていたが、社長の橋岡氏の意向で自社ブランドの製品として模型エンジンの開発を目論んだのだった。開発に当たってどの程度の市場調査をしたのか不明であるが、R/Cボートモデラーの市川氏やC/Lスピードモデラーの大場氏を相次いで入社させ、市場に受け入れられる性能を目指したのである。 橋岡社長は、模型エンジン開発ではまずレーシングを手掛けるべきだとう大場氏の意見を受け入れ、最初は後方排気型の15Rスピードエンジンを生産したのだが、当時は鉄ピストンのロッシ15全盛期で、モデラーにはアルミシリンダーの強度が疑問視されていた。 謎というのはこのことで、アルミダイカスト(ADC12)シリンダーに直接クロームメッキする設計が模型エンジンに適しているのかどうか、実は、これを見極めるのにずいぶんな年月が掛ってしまった。
その当時のHGK15の使われ方はおおむね次ぎのようなものだった。 FAIスピードでは、高速回転は出るもののチューンドパイプとのマッチングが悪くまともな記録は出なかった。ラットレースでは、高速で使うと再始動できず使いにくかったが、ただひとり、プレーンベアリングの15S型を和田光行氏が使って上位に入ったことがあった。 パイロンレーシングでは佐藤義朗氏が高ニトロ燃料を使って年間トータル成績の二位を獲得した。 このような中で性能の限界が明らかになって行った。まずシリンダーにテーパーがほとんどないためピストンクアリアランスを小さくできず、結果的にトルクが小さくなってしまった。当時は内筒研摩でテーパーをつけるためには専用機を用意せねばならず、外注先に研摩をさせていた橋岡社長にとって、専用機のコストを負担できなかったと思われる。つぎに、量産性をあげるために採用したダイカスト製のピストン材料(住友軽金属ハイパー19)の熱変形が大きく、高温高回転時に圧縮洩れを起こし易かった。さらに、シリンダーのテンションボルトがアルミシリンダーの熱膨張を吸収しきれずヘッド撓みによるガスケットからの圧洩れをしばしば起こした。そして、クロームメッキそのものと内筒研削による真円度はほぼ最高の水準だったが、シリンダーのテーパーとピストン材料の改良は最後までなされなかった。
メーカーとしての沿革はおよそ次の通り。 1974年最初の市販モデル15Rを発売する。15エンジン各型合計製産台数はおよそ数百台程度。輸出されたのはその半数程度。ヒット商品はカー仕様の21型で、一年間作り続けた総生産台数は約20000台。1979年頃、会社は橋岡技術研究所からキャビン工業に譲渡され「株式会社エッチジーケー」となる。その後40、45型を少数(200台程度)製造するが、1986年、キャビン工業の社長(当時)の死去により会社消滅。 会社の末期にはいくつかの試作モデルと共にディーゼルの開発もなされた。アルミブロックシリンダーとテンションボルトの設計がディーゼルに適していると思われたためだった。写真は当時の試作ディーゼルを示す。これはR/Cカー用に考えられたもので、大きさは21級、ピストンは鉄、アルミヘッドに鉄シリンダーを入れてカウンターピストンを組み込んでいるが、サンプルとして発表されたものは固定圧縮ヘッドになっていた。
模航研の改良によるテストでは全機種のディーゼル化が可能であるが、特に21型の性能が良く、カー用として成功したのもうなずける結果になっている。肝心のクロームメッキ、ダイカストシリンダーについては通常のディーゼル運転では強度的に問題なく、性能向上のポイントはピストンの設計にあることが判明した。つまり、早い段階でピストン材料の変更とシリンダー内研のテーパー化が実現していれば、市場からもっと良い評価が得られていたのにと悔やまれる。しかも、その後、同様なシリンダーは限定製産されるレーシング用以外には用いられていないのだからなおさらである。 |
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